ああ、北海道逆開拓団
その夏、津軽海峡を初めて渡った。宮城に来て2年目のことだ。青森の町はねぶたで賑わっていた。知らない町にふらりと立ち寄るのは実にいい、まして祭りだとなおさらだ。なんだか妙な解放感と対面する。旅館の2階などをとり、湯上がりの浴衣着で祭りの行列など見下ろしながら、お酌付きの冷たいビールなど飲んだら最高に違いない。しかし、僕の連合いは大学時代からの腐れ縁の悪友であり、室蘭行きフェリーの出航時間は迫っていた。東北港町、演歌の旅情もそこそこに、我々は多量の缶ビールとつまみを買い込んでフェリーに乗船した。
僕は当時焦っていた。目下の人生の最大目標は工房を開いて家具を作ることだった。宮城へは、木工の経験があり、工業デザインを教えることが出来る人材ということで声が掛り、赴任したのだ。短大ということでもあり、結構自分のやりたい研究や制作ができるのではないかと思ったわけである。とりあえず2年くらいはいいかもしれない。工業デザインだけだったら少々堅苦しい気がするが、木工技術者が必要という部分がいい、結構おもしろいのではないかと思った。
しかし、世の中そうそう良い話ばかりあるものではない、着任して呆然とした。つまり、訓練校時代の塗装科が短大移行にともない、塗装技術科という科に転科したわけだが、学生数が極端に低い状態が続き、科の存亡を賭け、工業工芸デザイン科に再度転科したのだ。僕を含めデザイン出身の教官は僅か2名、カリキュラムや科内の整備もこれからという状態だった。そこで僕は得意の木工技術を生かし、学生に制作させた木製品に塗装を施していくというのが彼等、旧塗装科教官の思惑だった。(しかしながら、例外的に行なった艶消しクリアー仕上げを除き、僕の行う仕上げ方法はオイルフィニッシュ以外にはほとんど無かったのである) そうすることにより、彼等の立場は保証されると考えたのだ。悲しいかな、そんな停滞の現場に向上や感動はなかった。そして、そういう人々ほど自己保存に熱心だった。つまり、工業デザインの内容がよく分かっていなかったに違いない。塗装は非常に重要だが、工業デザインの機能の中では、表面処理技術の中の一要素に過ぎないのである。
なにしろ、自分の制作や研究どころではなかった。まず、デザイン科作りから始めなければならなかったからだ。2年間はあっという間に過ぎた。きびしい状況だったが充実はしていた。しかし、35才までにはどんなことがあっても目的を達成しなければならないと考えていた。家具職人として、最も元気のいい時期を逸してしまうではないか。
独立予定地として当時は真剣に北海道を考えていた。特に理由はない。強いて言えば雄大であるとか、広葉樹が豊富にあるとかいった、ほとんどロマンといえる部分だ。北海道の小学校の廃校で家具作りを始めるのだ。どうしても無理な場合はふるさと九州へ帰ろう。逆算すると今年あたりから真剣に動き始めなければならなかった。まずは下見を兼ね、北海道に行こうということになったのである。
僕たちのトヨタライトエース ワンボックスはバイク2台を乗せ、東北縦貫道を北上した。オッサン2名には北海道をバイクで走りたいというもう一つの希望があった。当初バイクで行こうとしたのだが、雨が降ると嫌だということで車に積んで行くことになったわけである。おいしい所だけを取ろうとしたのだが、結局バイクは一度だけしか乗らずじまいだった。積み降ろしがひどく面倒だったのである。
僕は下見を兼ねて都合3回、北海道へ行き、結局、計画を断念した。つまり、適当な場所を見つけることが出来なかったのである。この時点で33の夏が過ぎ、当時、かなりまずい状況だなと追いつめられた感覚があった。
室蘭へ上がり、門別、日高を経由し富良野を経て旭川の友人宅で一泊、翌朝ワインで有名な池田町へ向かった。国道39線沿い、層雲峡の手前、たぶん、白川と言われるあたりだろうか、ふと、学校の体育館らしい少しくたびれた建物を目にし、立ち寄った。小学校跡だった。校舎はすでに無く、体育館のみ、取り壊されることなく放置されていた。ガラスの割れた、閉ざされたドアには某回卒業生何某、某月某日傘マークが刻まれているのも物悲しかった。結婚を期にふるさとを訪れ、母校をたずねたのか、あるいは、恋愛中の卒業生がドライブで立ち寄ったのかは分からないが・・・
僕は敷地内を散策した、運動場はずいぶん小さくなっていた。森が勢いを取り戻し、押し寄せていたのだ。かつて切り開かれた場所が、また元の姿に、この静かなたたずまいの中で、黙々たる自然の営みが確かにあった。
ここに入植者達が来たのはいつの頃だろうか。津軽海峡を越え、この遠い道のりを来たのだろう。どんな思いを抱いて来たのか。着いた夜の、明日からに賭ける熱い思いは、ここの原野を前にしたときの希望に燃えたであろう、鍬の最初の一振りはいかばかりか。確かにかつて故郷を後にし、この極寒の地に、これからの人生を賭けようとした人々がいたのだ。廃校になっているということは、多くの人々が夢破れ、この地を後にしたことを物語っている。
あまり多くを語らず、晩酌の焼酎が唯一の楽しみの、家族から多少疎んじられてるにせよ、おそらく、そんなじいさんにも熱き時代があったのだ。少なくとも、気概を持って踏み出した人々がいたのだ。僕は、彼らの心情に思いを巡らしたとき、共感と寂寥の感覚をを禁じ得なかった。僕が思っている夢や希望や躊躇や逡巡なんて取るに足りないことではないか。それほど大袈裟に悩むことはないではないか。僕は再び校庭を埋めようとしている自然の営みを目の当たりにしながら、そんな思いに捉えられ、しばし、立ち尽くしていた。
ふと、振り返ると友人は大あくびをし、涙を拭いていた。その、あまりにも平和的な仕草に僕は思わず笑ってしまったのだった。
縁あって九州は熊本県小国町に落ち着いた。僕がかって北海道の地で感動したほど、何か情熱を賭けたとか、熱意みなぎらしたとか、特別たいしたことをやった気はない。感動に値するような生き方をしていないのは本人が一番良く知っている。とにかく、フェリーで日向に上陸した時、日本全国どこででも見かける、コカ・コーラのマークの入った商店の看板が目に映り、日本全国どこへ住んでもかわりないな、深刻になるほどのことはないなと思ったものだった。たとえ、夢破れようとただ踏み出しえた記憶が残せればいい。
国鉄民営化問題で労使が大いにもめていたころのことだ。国労や動労の過激的活動派組合員が、民営化後のJRに雇ってもらえなく、ごたごたしていた。特に、九州や北海道の要注意組合員のJRでの雇用先がなく、たとえあったとしても東京、名古屋、大阪方面だったりしていた。そんな時、NHK特集で再雇用拒否・活動派組合員、その後の追跡レポートというような内容のドキュメントが放映されたのをたまたま見ることができた。北海道の組合員が多く取り上げられていたような記憶がある。運よくJR北海道に拾われた人、清算事業団に残り、あくまでJR北海道での再就職を希望する人、また、北海道での就職を諦め、遠くJR東海に転勤してきた人などの生活が報じられた。中でも、名古屋に来た一家のシーンは強い印象として記憶に残っている。
その国鉄職員は、自分はあくまで国鉄が好きだ、たとえ遠くに行くことになろうと国鉄を離れられない。だから、名古屋であろうと来たと言うのだ。しかも、北海道に未練を残したくないから家や土地を手放してきたと言う。そして、今では名古屋で満足して働いているといっていた。
番組の中で、彼の奥さんが、かつて北海道の仲間とよく飲みに出かけたという居酒屋に電話をするシーンがあった、向こう側から楽しそうな話し声や歌声が聞こえて来る。彼女の元気でやってるわよと言う声が、少しずつ涙声に変わっていった。望郷か、寂寥か、無念さか。それを見ながら、彼女の涙が伝わってきた。我々も遠くから九州へやってきた経験を持つから共感したわけではない。仕事への思い入れがいいではないか、家土地、処分してきた潔さがいいではないか、一歩踏み出し得た勇気がいいではないか。僕はあなたがたのことを忘れることはないだろう。まさしく、北海道逆開拓団ではないか。僕は心から拍手を送っていた。
(1987)