家具制作鯛工房

モダンでシンプルな家具を制作する家具椅子工房です

ジェイムズ・クレノフ 手造りの名匠 (3)

ジョナサン・ビンゼン 邦訳:寸五工房 三ッ橋修平

1981年クレノフは、カリフォルニア州フォートブラッグにあるカレッジ・オブ・レッドウッドに木工の講座を創設した。学生は世界中から、またそれ以前に様々の経歴を持った人々が、この小さなコミュニティ・カレッジの講座に参加するためにやってきた。以前の専門分野が音楽や絵画であっても、木工の技術と同等に評価され入学を許可されるようである。九ヶ月後には、以前に工芸の経験のなかった学生でさえ、並みはずれた高水準の制作をするようになり、そのことは指導の質を示している。
学校の雰囲気には、一種緊張をはらんだ意識の集中と献身とが感じられる。学生たちは、そこでの経験を、でき得る限りまさに最高の制作をするための希少な機会を与えてくれ、残りの世界が遠ざかってしまうような経験として描写する。「彼がどれだけ私を突き動かし、何が可能なのかということについての私の視点をどれだけ高めてくれたかを、十分に言い表すことはとてもできません」と、シアトルの家具作家、ビル・ウォーカーは語る。もう一人の以前の学生であるレス・シゼックは、この学校に参加する以前に、長い間仕事で成功した経歴を持っている。クレノフの教え方について、シゼックは述べる。「彼には、人が物を見るようにさせる才能があります。私たちは、ある庭園を歩きながら、〈これは素晴らしい庭園だ〉と言うことはできます。しかし、一度ふさわしい人物と一緒に庭園を通ったならば、そこを出る頃にはもう、形や配列や色について異なった識見を持っているでしょう。つまり、あなたの物の見方は高められているのです」。
ちょうど読者がクレノフのメッセージの引き起こす葛藤と和解しなければならないように、彼の学生たちは彼の人格の矛盾点に直面しなければならない。クレノフの意思の強さと妥協を望まぬ姿勢、まさにそれこそが彼の家具の原動力なのだが、そういう姿勢が、彼との間でお互いにやり取りすることを困難にすることもある。
クレノフは認めている。「人は片隅に入り込んで石のようになる場合があるものです。そんなとき、人々はその人を不寛容であると言ったり、いこじであると言ったりするものです。確かに私も、ときにはそうかもしれません。それは、私という人間の消極的な側面です。しかし、もう一つ別に積極的な側面もあって、それは、私が強固な見解を持っているということです」と。ひとりで制作をし、自己表現の人生を生きる者はだれでも、自分の確信の強さに依拠しなければならないと、クレノフは感じている。「人は何かを信じるようになるものです。自分が妥協したくないと思うような何かを」。
クレノフの家具の作風には、彼の意見と同じような強さがあり、カレッジ・オブ・レッドウッドの授業は、部外者によって、学生の制作がクレノフに似かよる傾向があると批判されてきた。レス・シゼックは、ままそういうことがあることを認めるが、しかし彼はそれがさも当然であるかのように思っている。「もし仮にベートーベンの下で学んだとしたら、ジャズのリフを演奏するなんて考えられないでしょう。彼( ベートーベン)が教えようとして蓄えているものを学ぶのです。後になって、学んだことを使い、自分自身の内なる声(表現)を発展させることもできます」。

(注:この節の展開は、多少ギクシャクしている。恐らく紙面制限のために、若干の省略をしたのではないかと思う。後半、Jimのネガティブな側面の話がいきなり展開している。
Jimは、家具造りにおいて、確かに妥協のない人生を送ってきた。その意味では、単なる家具職人ではなく、やはりアーティストである。− 芸術家という日本語は大仰に聞こえるので、カタカナ表記にする。どんなモノ造りでも、妥協のない意欲を実現できていれば、それはアートたりうる。アートという言葉で、ルネッサンス美術やクラシック音楽を連想する必要はまったくない。それは先入観というものだ。アートは我々の日常に存在しうるし、極言すれば我々の日常の中にしか存在しない。なぜなら、アートとは新たに造ることだからである。いわゆるルネッサンスやクラシックは歴史なのである。我々の日常ではない − Jimが同じ作品を同時に二点以上造ることなどありえない。必ず一品制作である。常識的に考えて、商売としては絶対に成立しないのである。従って、彼が他のアーティストをするとき、矛先はそのアーティストの妥協的な部分に向けられる。たとえば、コーマーシャリズムに流される形で制作を続けている場合などである。かなりはっきりとした物言いをする。「サム・マルーフの椅子は( 値段が)高すぎる」とか「イナモト・タダシ? 彼はサンダルメーカーだ」とか。どういう文脈での発言だったか覚えておらず、また私のヒヤリングの力量不足も十分ありうるが、確かにそういう発言をしていた。人にはそれぞれ事情というものがあり、また生きている環境も違うので、Jimの批判を真に受けるのは公平さに欠ける。「不寛容」な発言とも言える。ただし、彼が批判の対象とするのは、社会的に認知されたいわゆる「有名人」であり、彼らは公的な批判を受けて立つ義務を負っている人種である。この程度は十分に許容範囲のはずである。確かに世の中、コマーシャリズムの中だけでしか生存できないクソ「アーティスト」はゴマンといる。
Jimが我々学生の制作場面でも「不寛容」だったかというと、そんなことはぜんぜんない。事情はむしろ逆である。毛色の違う作品を造る学生の作業をいつも興味深そうに覗きこんでいた。「何やってんの?」と言った調子で。たとえば、私が在籍していた年の話だが、デンマーク人のアイラー・ウエストとか日本人の小山 亨などの外国人の方が、一般のアメリカ人とは違ったバックグラウンドやアイデンティティーを持っている分、おのずと作品も風変わりに見えるものが出来上がる。Jimはそれを見ながら、明らかに楽しんでいた。この学校にはJimの著書を読み、彼の作風に惹かれてやってくる人がやはり多いので、そういう人ばかりの年は少々退屈になるらしい。幸いにして、我々のクラスは、国籍の上でも人種(肌の色ではなく、生き方や思想という意味での人種)の上でも、実にバラエティーが豊かであった。私は、Jimからだけではなく、ここの学生から大いに刺激を受けたし、多くのことを学ばせてもらった。
文中に出てくるレス・シゼックもその一人である。レスと私は“butt mate”である。日本語にすると、「ケツ友だち」である。一つの作業台を二人で使用しており、次の作業台では、私のすぐ後で、彼がいつも黙々と作業していた。当時62歳、長身、白髪のロングヘアー、鼻の下にはカイゼルひげ、耳にはピアス、ゆっくりと正確に話す奥の深い声。実に威風堂々とした存在であった。朝鮮戦争に従軍しているので、若干日本も知っている。私はこの人から多くの基礎的な木工用語を英語で教わった。鉋屑をつまんで、「これ英語で何というの?」とか「こういうふうに平らにする〈ツラにする〉のを英語で何ていうの?」とか「ドアスキンってなんのこと?」〈3ミリベニアのことをドアスキン=ドアの皮と呼ぶ〉とか「MDFってなんの略?」とか、極めて初歩的な単語を教わったのである。以前辞書で覚えていたはずの言葉が、いざその場になってみると出てこない。ところが、その後レスに教わった言葉は、絶対に忘れないのである。不思議なものである。言葉というのは、信頼する人から口でじかに教えてもらうと、頭の中に焼き付いてしまうのである。たぶん赤ん坊は、こんな風にして言葉を獲得するのではないかと、いまさらながらに感心する。何の努力も要らないのだ。
この人物、生れはコネチカット〈クゥンネ〜リカと発音していた。へー、と思った〉だが、ここに来る以前は長らくフロリダで、もっと実用的な木工の仕事をしていた。木工の教師もしていた。ところが、Jimの著書を読み、大いに触発されて、入学したのである。60過ぎて、である。彼はJimに心酔していると言ってよい。Jimに質問しては、うん、うん、と深くうなづきながら、じっくりと話を聞いている姿が印象的だった。ところが、彼の作品は、決してJimのコピーではない。もちろん影響の跡はあるが、やはり彼自身の作品であった。決して派手ではないが、実験的なアプローチが必ずあった。フロリダにいただけあって、トロピカル・ウッドを好み、椰子の木を使ったりもした。ジョージ・ナカシマの椅子〈ヘビーでないもの〉をコピーしたりもした。おそらく、自分の作風を探求していたのであろう。自分の作品とじっくり対話する人だった。その後、フロリダは、'92 年のハリケーン・アンドリューでずたずたされ、彼の家も破壊されてしまった。今は住み馴れたフロリダを捨て、何とフォート・ブラッグに移り住んでいるそうである。おそらく、骨を埋めるつもりであろう。以前からその兆候はあって、住みたいと言っているのを聞いた覚えがある。
(以下次号)

Contents
Sales & Service

椅子用ペーパーコード
デンマーク製ペーパーコードを販売しています。

桐油の販売
オイル仕上げ用の「桐油」を販売しています。

椅子の張替え
Yチェア等の椅子の張替を行っています。

ウィンザーチェア教室
英国スタイルの本格ウィンザーチェア制作教室を開催しています。

Link

興味の壺
プロダクトデザイン・メカニスム・伝統的アーキテクチャー等を紹介しています。