家具制作鯛工房

モダンでシンプルな家具を制作する家具椅子工房です

ジェイムズ・クレノフ 手造りの名匠 (5)

ジョナサン・ビンゼン 邦訳:寸五工房 三ッ橋修平

−おそらく彼女の方が安定収人を得ていて、家計を支えていたものと思われる。木工の実際を理解していなくとも、彼女はJimの人格を深く理解していた。 明らかに彼女はJimを支えていた。別に立ち人った事情を 間い質した訳ではない。彼女に対するJimの態度を見ていれば判るのである。実によく気づかう。〈ブリッタは脚が衰えつつある。〉ブリッタの言うことには絶対服従である。「帰ってきて」と電話があれば、すぐに帰っていく。毎朝Jimの方が早く起き、薪ストープに火をいれ、朝食の準備をし、ブリッタが起きるのを待つ。我々には、小声で「シーッ、ブリッタが目を覚ますから、静かに」と伝える。今思えば、高山でもそうだった。'89年、岐阜県高山でのサマー・セミナーの最中、Jimは売店でアイスクリームを買おうとして、足を滑らせ、スティール製の商品棚の角で腕を切り、15針縫う大怪我をした。居合わせた私は、血の気の引く思いで応急の包帯を巻いたのだが、その時の彼の言葉をよく覚えている。「深くはない。この程度ならまったく間題はない。絶対にブリッタに言わないでくれ。彼女が心配する。絶対に言わないでくれ。自分から説明する」救急車に乗せる前に、何度も念を押された。彼ら老夫婦は、二人だけの会話では、スエーデン語を使う。私は一言一句聞き取れなかった。それでも雰囲気は伝わる。夫婦とは、こうありたい。

私の知っている、Jimにとって常に必要不可欠のもう一人の人物は,マイケル・バーンズである。Jimの一番弟子である。彼ぬきでは、Jimの講座自体が成立しえない。この人は実におもしろい経歴の持ち主である。U・C・パークレーやU・C・デービスで植物学を修めた学者である。と言っても、今では庭にニンジンを栽培するくらいだが。そしてその後の職業は大工である。Jimとブリッタが住む家は、彼が建てたものである。こじんまりとした、しかし二人にとってはちょうどいいスペースの良い造りの家である。そして更におもしろいのは、今ではとても想像できないのだが、この人が若い頃、完壁な、とんでもないヒッピーだったことである。おそらく、1970年前後の話である。南べトナムはべトコンに よってじわじわ侵食され、日本でも返還前の沖俺からB52が毎日毎晩スクランブルしていた時代である。米国の、とくにカリフォルニアの、とくにバークレーの周辺が、前代末聞の騒然とした状況におかれていた時期である。マイケルも、典型的な徴兵拒否のドロップアウトであったはずである。その彼が、Jimをカリフォルニアにひっぱってきて、カレッジに交渉し、すべての御膳立てをして、現在の講座を開設させたのである。その行動力たるや恐るべきものがある。いまでも、脇役には撤しているが、敏腕を十二分に発揮し、すべてのスケジュールを立て、交渉ごとを取りまとめ、連絡をし、手配をし、指示を出して、講座の運営を推進するのは、この人なのである。面倒なペーパーワークも、もう一人の助手デービッド・ウェルターとともに精力的に片付ける。さらにそれだけではなく、押しの強い性格から、あらゆるもめごとを解決し、人心を掌握し、統率する。学校内の不満分子は、ことごとく彼によって説得され、押さえ込まれる。まさにファイン・ウッドワーキング・プログラムの指令塔である。私も経験がある。渡米直後、トム・デヴリース〈 アラスカから来たアメりカ 人〉、ホ一カン・アーランソン〈スエーデン人〉と私、という三人の典型的な貧乏学生は、学校所有の古い空家にもぐり込み、共同生活を始めた。家賃は払わなくてすむし、バス・トイレなどもなんとか機能するので、極めて快適だったのだが、ある日、サンフランシスコの大学の学生寮で死亡者の出る火災事故が発生した直後、我々の家には違法配線があるとのロ実で、退去勧告を受ける羽目に陥った。配線を直せばすむとも考えられるが、管理の対象になっていない物件に住むこと自体が問題にされたのだと思う。そこを何とかならないかと、粘ってマイケルに交渉したのだが、「私にはどうしようもない。1ヵ月の猶予を与える。とにかく、出ろ!」と押し切られてしまった。彼にこう言われると、「わかった」としか言いようがないのである。こういう言い合いは結構あったのだが、かえってその分、きずなが強まって、彼は圧倒的に多くの学生・卒業生に幕われることになる。ケビン・アベの話では、Jimはマイケルのことを自分の息子のように考えているそうである。〈Jimの子供は、三人とも女性〉要するに、マイケルなしでは、今のJimの活動自体がありえないのである。今度マイケルに会えたら、昔のことをもっとじっくりと聞きたいと思っている。重要な機会を逸してしまったことが悔やまれる。しかし、マイケル自身今頃は、心中でJim亡き後のことを思い巡らしているのではないかと察せられる。

ブリッタとマイケルの二人のことを考えても、やはりJimの周辺には、他にも多くの強力な助力者がいたことが想像できる。その意妹で、Jimは幸運でもあったと言えると思う。

環境的な条件ということであれば、Jimが家具造りを通じて自己形成した土地がスエーデンであったと言うことも大きいはずだ。ホ一カン〈スエーデン人〉は、国から貸与奨学金を借りる形で留学していた。後で返済することになるが、返済には何十年かかっても良いらしく、極端な話、その人が一生貧乏だったら、返済が末完に終わっても構わないのだそうである。ホーカンは、お金を貯めたり、奨学金のために難しい試験を受けたりといった金銭的な苦労はほとんどせずに留学していた。感覚的には、フラッと長期の海外旅行に出るような調子である。やはりスエーデンは、人が生きていき易いシステムを持った国であることはまちがいない。Jimにとっても、それは幸いしたはずである。ただし、良いことずくめかというと、そうでもなく、寛大な福祉制度を悪用する人間も後を絶たないらい。大した理由もなくズル休みする人間が結構おり、生産性にも影響が出るのだそうである。「まじめに働いてる貧乏人でも、給料から半分以上税金を特っていかれるんだぞ!こんな理不尽な話があるか!」と、見学に来た、ホ一カンの友人三人がロ々に批判していた。世の中、ほんとに理想的な国などは存在しない、ということだろうか。しかし、それにしても日本は住みにくい、と私は思うが‥‥。
話がだいふ逸れてしまった。戻そう。
Jimの人生をふりかえって私自身のことについて言うならば、私がJimのような生き方をするのは不可能だと思う。しかし、少しでも彼に近づきたいとも思う。たとえ貧乏になったとしても。やはり、activeに生きることの方が重要である。長くなるので、もう具体例は出さないが、クレノフ夫妻の私生活は、今の平均的な日本人の生活に比べたら、はるかに質素でストイックであることをつけ加えておく。

おわりに

当時、ワタクシは乗ってられない満員電車に揺られ、都区内に通勤するサラリーマンをやっていました。職業訓練校で木工の勉強を始める前のことです。持病のアレルギー性鼻炎で頭痛が止まらず、四谷だったか御茶ノ水だったか忘れましたが、そのあたりの大学病院で診てもらっていました。治療を受けたその日の帰りも頭痛が取れず、運良く座ることのできた国電中央線では、ほとんど下を向いたままでした。当時の利用駅である国立駅にようやく辿り着こうかというときです。ワタクシの前に立っていた中年のオッサンが怒り心頭、堪忍袋の尾が切れたという感じで「なんだ君は、若いクセに、隣の辛そうな方へ席も譲れないのかっ」と、怒鳴るのです。驚いて見上げますと、端に掛けていたワタクシのすぐ横、つまりドアの端の隅で、青白い顔をして今にも倒れそうな初老の婦人が、手すりにもたれるように立っているのです。ウトウトしながらも、ときおりは周囲をながめることはありましたが、彼女がどこから乗ってきたのかまったく気がつきませんでした。周囲二〜三メートル内の乗客の冷たい視線の中で、事情を理解した私は、反論も言い分けも許されない雰囲気の中、ぺこりを頭を下げ、席を立ったのであります。ほどなく電車は国立駅の下りホームに滑り込みました。改札へむかう冷たい風の中でワタシクは笑っていました。ハンディキャプのある人にはいつも進んで席を譲るように心掛けているワタクシが、よりによってこのような状況に陥ったのですから、怒るどころではなく、自分自身を笑うしかありませんでした。
「近頃の若ぞうはろくなもんじゃないよ」などと手柄まじり、嘆きまじりで家族へ報告するオッサンの晩勺ゴールデンアワーがあるかもしれないなぁ。などと思いをめぐらす、なさけないワタクシの帰路であったのです。寒い季節が近づくと思い出します。ではまた。

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